「この道」はプログレ
敷かれたレールの上を歩いていくなんてまっぴらだ。
14歳の私は本気でそう思っていた。
敷かれているレールがあまりに強く、綺麗で、まっすぐで、地平線の向こうまで伸びていたからである。
私を乗せたトロッコにはハンドルが着いておらず、レールはタイヤにがっちり嵌っており、脱線のしようもなかった。
家庭環境に恵まれていた私のトロッコは、定期的に父や母からのメンテナンスを受け、杓子定規どころかノギスで測られたようにまっすぐな軌道上にあった。
レールが走っていく地面すらも綺麗に整地され、10代の私は「トロッコから降りて地面をめちゃくちゃに走ったらどんなに心地いいだろう」と、
遠くの方にはしゃぐ「レールから外れた人達」を眺めていた。
ある日、レールがプツンときれた。
地平線の先まで続いていたはずの私の足元のレールは、スタッカートを打ってきれいに途絶えた。
レールが永遠でないことは知っていたし、本当は、いつかはこの人生の地面を自分で均し、整え、レールを敷いて過ごしていかなくてはならないと、トロッコの外側からいつも聞こえてきていた。
その時になって始めて、私の乗っていたものの外側が見えてきた。
遠くにうっすら見える、路線外の人達ばかり眺めて身近な環境をまじまじと見た事がなかったのだ。
父や母はしっかりと自分のレールを自分達で作り上げてきていた。
その傍らで私の人生に責任を持つべく、子供である私の路線も整地から乗り心地まで管理していたのだ。
わたしが頬杖をつきながら遠くを眺めて、口先だけは「レールから外れたい」などとぼやいていた間に、近くのレールの上では同年代の若者たちが自らの分の「それ」を拵えながら、自分の足で先へ先へと進んでいた。
私は暫し惚けながら座り込んだ。両親や祖父母がどのように今まで私の足元を整えていたか全く見ていなかった。
ワンテンポ遅れて、「敷かれたレールから解き放たれた」ことに意識がいった。
ずっと眺めていた遠方の自由な人達の仲間になろうと思った。
何もしかれていない地面を、裸足で、ぐちゃぐちゃと、好きなように走り回っていたあの人たちになれる。
「その地」を薄ぼんやりとしかながめることのできなかった私は、そちらに歩を進めたが、最終的には、その地に足を踏み入れることは無かった。
近くに寄って少し眺めただけで、「私はここで走り回ることは出来ない」と理解出来た。
その地には、
代々受け継いだ莫大な資源で孫の代の分まで路が完成している人や、長年かけて積み上げてきた自分だけの方法で移動する人たちや、楽しそうにスキップしているように見えてとてつもない疲労を抱えている人たちや、レールの代わりに飛行機を誂えて飛び回っている人たちや、誰も手入れをしていない泥濘に足を取られないように膝まで泥だらけにしている人たちや、なすがまま地面に横たわり、風が吹いた時だけボロ雑巾の様に舞う人たちや、轍に足を嵌らせ身動きができずレールの上の人達を羨ましげに見つめる人たちや、その身動きできない泥だらけの人たちを踏みつけて進むことで辛うじて止まらずにいる人たちがいた。
両親が私を路線外へ出さなかった理由がわかった。
私はすごすごと「元の地」に戻り、しかし両親のように綺麗で立派なレールを作る事も出来ず、不器用に形の悪い小道を作り始めた。
それでも父も母も祖母も祖父も、「綺麗な小道だね」と言った。
近くでは友人たちも、立派だったり頑丈だったり不思議な形の色んな道を歩いているのが見える。時折こっちを見て手を振ってくれる人もいる。
そういう訳でここの所ずっと、私はこの形の悪い小道を気に入っている。